備考欄的なものとは?
ありがたいことに、ここ最近SHIBUYA QWS内の方やその他の方にも自分が掲げたプロジェクト備考欄というものに対して関心を持っていただくことが増えました。
その際に、お話しさせていただくことで少しだけわかった(逆にわからなくなった?)ことがあるので記しておきたいと思います。
※この3ヶ月は特に備考欄についていろんな角度から考えて自分たちの中での解像度あげます、という宣言のようなものをしているのですごく良いことだと思ってます。
まとめると、2点くらいあります。
1.どれが備考欄的なもので、どれが備考欄的なものじゃないのか?
2.備考欄的なものこそ本質的なものなのか?
1.どれが備考欄的なもので、どれが備考欄的なものじゃないのか?
メンバーとのお話しの中でも、「趣味はなんですか?」って聞いても紋切り型の言葉たちから回答を探す感じがして備考欄的な内容が出てこないよね、とかそういうことをお話ししたりします。
ともすると、
「じゃあ備考欄的なものってどんなものって条件がいくつあって、AとBとCと時にはDを持つ場合もあるんだ(キラリ)」みたいなお話しになりそうな気もしましたが、
定義できるものじゃないし、するべきものでもないんじゃないかな〜というのが現時点での思いです。
「XXXは備考欄的じゃないから意味ないからダメ」みたいなことを言ってもしょうがないかな、と思ったりします。
どちらかというと、備考欄的なものが存在するということや「備考欄的なこと」という言葉が時々頭の中を掠めるくらいの状態になったら面白いんじゃないかなと思っています。
例えば、面接などの場「備考欄的なこともここからはお話ししましょうか」と言ったら双方がなんとなく近しい認識を持ってその場にいることができるみたいな状態をイメージします。
近しいイメージとしては「チルする」という言葉かなと。
「チルする」という言葉に対して「これはチルするに値しないよ」とか「お前のチルするって間違っているよ」みたいなことをいう人ってそんなに少ないんじゃないかなと思うんです。
「チルする」という言葉を持ち合わせる人たちがゆるやかにそして曖昧にそれぞれの定義で使う。
けれどもその言葉があるからこそ、チルするための場所だったり時間というものは存在することが許されている、そんな感覚があります。
感覚で言うと、

ではなく、

みたいな。こんなイメージかなと思ったりします。
もちろん、左側の項目を話す中で、備考欄ぽいものが出てきて、もう少し深ぼると備考欄的なものになる、みたいな流れだってあると思います。

そもそも備考欄 ”的”なものって言っていますしね。
本来ちゃんと言葉にすると備考欄におさまるものだから備考欄的なものって表記だとちょっと違う気がするんですが、それくらい曖昧の方がきっといいのかな〜と思ったりします。
2.備考欄的なものこそ本質的なものなのか?
プロジェクト備考欄のお話しをさせていただくと、「ふむふむ、左側の項目だと、その人の本質見えないですもんね、備考欄の方がその人の本質を表すわけですか。なるほど!」という反応をいただきます。
これについては現時点で「そうなんです!」と返答する勇気はありません。
なんとなく違う気もしていますし。
まず、”本質”という言葉は山本個人としてはすごく怖い言葉だと思っており、本質とはなに?という問いに答えることなどできるのだろうか、と気が遠くなって避けてしまう問いの一つです。
なので、そもそも備考欄=本質かは検証しようがないのかもと思ったりします。
また、そもそも私たちのスタンスとしては、「誰かと誰かがこれまでにないつながり方を実現する!」とか「強み弱みという言葉では出てこないその人の癖を見つけて、仕事に活かせるようにしよう!」とか備考欄的なものをなにかの目的に据えていません。
ただ単に備考欄的なものを聞くこと自体が面白いな、好きだな、そういうものが発露するための仕掛けってなんなんだろう、くらいのスタンスで活動をしている前提があります。
なので今のところは、備考欄的なものがその人の本質につながる通路の入口くらいにはなるのかもしれない、くらいに思っています。
紋切り型の項目だけで会話をしている際にはツルツルしつかみどころのない相手だったのが、備考欄的なものを知ることにより、相手の表面から触り心地が異なる部分や凹凸がある部分を発見し、そこを裂け目にして、その人の中により入っていけそうと思わせてくれるそんな関係が結ばれるのかもしれないな、と思っています。